1
『あ、ミタさーん』
向こうから歩いてくる2人連れの女の子の一人が、少し離れた所から軽く手を挙げて声を掛けてくる。 見ると祥子である。 祥子の横の連れはいつもと同じ 美由紀である。 この2人はとても仲がいいらしく、私が会う時はいつも一緒である。
『やあ』と応えてこちらも軽く手を挙げる。 ここはT大の構内のS池のほとり、木立の中の散歩道である。 今日は土曜日だし、仕事が一区切りついたので、昼食を食べたあとで構内を散歩していて、そろそろマンションに帰ろうかな、と思っていた時のことである。
互いに近づいて 丁度 椎の大木の横で落ち合い、立ち止まる。
『やあ 今日は。 またお2人お揃いで。 今日はどちらへ?』
『ええ ちょっと』
祥子はちょっとはぐらかすように笑う。 そして改めて言う。
『でも 三田さん。 丁度いい所でお会いしたわ』
『え?、丁度いいって、何か僕に用でもあったのかい?』
『いいえ、特別 ご用という訳ではないけど』
祥子はまたにっこり笑う。 そして、
『でも三田さんは、今日は今から時間が空いていらっしゃらないかしら?』
と都合を尋ねてくる。
『うん、実は今日は仕事も一区切りついたので、今からマンションに帰ってゆっくりしようか、と思っていた所なんだ』
『それじゃ今から、あたし達のマンションに遊びにいらっしゃらない?』
『え?、君たちのマンションに?』
私は一瞬とまどうが、すぐに2人が共同でS橋近くのマンションの一戸を借りて 一緒に生活している、と言っていたのを思い出す。 祥子が続ける。
『ええ、そう。 あたし達も今日はマンションでゆっくり過ごしましょうというんで、すぐそこのHでケーキを買って帰る所なの。 でも いつも同じ2人だけではつまらないから、どなたかご一緒して下さる方があるといいわね、と言いながら、ちょっとT大の中に入ってきてみた所なの』
なるほど そういえば確かに、美由紀がケーキの箱らしきものを包んだ風呂敷包みをかかえている。
「祥子」はフルネームを「岩崎祥子(イワサキサチコ)」といい、近くの歯科大に通っていて、身長が165センチばかりの 理知的で美しい容貌をもった 活発なお嬢さんである。 また「美由紀」は「小川美由紀(オガワミユキ)」であって、祥子よりは大分小柄で 身長150センチ余りか。 愛くるしい顔立ちをしており、何でも近くのN大の数学科に通っているとかで、やや控え目でおとなしそうなお嬢さんである。 2人は同い年で、血縁関係はないらしいが、いつも一緒に居て何かにつけて『美由紀』『祥子』と呼び交わしているさまは、まさに仲の良い姉妹のようである。
この2人は昨年秋のT大の文化祭で 私の担当したパネルについて質問してきたお嬢さん方で、そのすぐ後でまた街で出会って一緒に喫茶店に入り、コーヒーを飲み、名刺を交換した間柄である。 その後しばらく会うことがなかったが、新学期になってまた街で出会い、それ以来何回か街を一緒に歩いたり喫茶店に入ったりした。 そして今ではすっかり親しみを感じ、2人が互いに呼びあっている名前にひかれて私も2人を姓ではなく名前で『祥子さん』、『美由紀さん』と呼ぶようになっている。 どちらもガール・フレンドとして悪くないな、と思っていた矢先なので、心が動く。 とっさに『うん、有難う』と応える。 しかし、一応は遠慮の意味も含めて訊いてみる。
『でも、君達は2人だけで一緒にマンションに住んでいると聞いてるけど、そのような女の城に僕なんかが入って行っていいのかい?』
『ええ、やたらな人はお入れしないけど、三田さんなら大歓迎よ。 もしご都合が悪くなかったら 是非いらっしゃって下さらない?』
祥子はますます積極的に誘ってくる。 私もすっかり乗り気になる。
『それじゃ お言葉に甘えてお伺いするかな』
『まあ 嬉しい。 じゃあ さっそく、一緒にいらっしゃってね』
祥子のその言葉に 美由紀も横でにっこりする。
2
さっそく3人で歩き出す。 A門を出てH通りに出て、すぐに通りを反対側に渡って H3丁目の方角に向う。 今日は5月下旬の天気のよい土曜日の午後なので、歩道にかなりの人通りがあり、並んでは歩けない。 祥子が先頭を行き、美由紀がそのあとにつづき、私が一番後から人混みをぬうようについていく。
H3丁目の交差点を通り過ぎてさらに少し行き、右から入ってくる可成り広い道路を横断してから右に曲がり、その道路の南側の歩道を行く。 やや人通りが減り、時々人を避けながらなら 歩道を3人並んで歩けるようになる。 私を中央に、右に祥子、左に美由紀が並んで歩いていく。 ちょっと両手に花の気分である。
『君達2人は学校はもっとO駅に寄った方で、H通りにはあまり縁がないだろう。 今日は何でT大の方まで行ってたの?』
『ええ それは、Hのケーキが食べたかったから』
祥子はそう答えて にっこりする。
『それもあるけど』と美由紀が左から口をはさむ。 『実は祥子が、出来たら三田さんの顔を見たいからH通りの方へ行ってみましょう、って言い出して、少し遠回りすることになったのよ』
『いや、それを言い出したのは美由紀じゃない』
『いいえ、祥子よ』
美由紀も譲らない。 しかし 私は2人のこのやり取りを聞いて ちょっとびっくりする。
『それはどちらでもいいけど、でもそうとすると、とにかく最初から僕がお目当てだったのかい?』
『ええ ほんとはね』
祥子がまた笑いながら答える。
『また どうして僕を』
『それは ひ、み、つ。 マンションに着いたら教えてあげるわ』
『ちょっと怖いな。 まるで誘拐されてるような気分だな』
『ええ ほんとに誘拐してる積りよ』
祥子はまたにっこり笑う。
『実は今日は何としても三田さんをお迎えする積りでH通りに行ったの。 そして三田さんはよくS池の周りを散歩なさるっておっしゃってたから、まずそこへ行って、もしそこでお会い出来なかったら研究室まで押しかけていって、さらってくる積りだったんだから』
『それは惜しいことをしたな。 もしそうなったら研究室の仲間に、こんなきれいな女の子2人に誘われたんだぞ、って自慢できたのに』
『あらあら。 それじゃやはり、三田さんの方が一枚上ね』
祥子はまたおかしそうに笑う。 私もすっかり愉快な気分になる。
『でもそうだとすると、さっきとは大分話が違うね。 ただケーキをご一緒に、というんじゃなかったのかい?』
『ええ ほんとはね』
『何だか逃げ出したくなったな』
『もう駄目よ、逃がさないわよ。 それにもう、あそこに見えるのがあたし達のマンションなんだから』
祥子が左手前方を指差して いたずらっぽく笑う。 ちょっと立ち止まって、
『あ、どれ?』
と指の方向を見る。 その方向に茶色のこぎれいな7~8階建ての建物が見える。
『ああ、あの茶色の建物かい?』
『ええ そう』
『なるほど もう、そんなに近くまで来てたのかい。 それじゃしょうがないな。 それにこのように両側からお2人に挟まれてては 逃げ出すことも出来ないし。 僕も観念するかな』
『ええ そうなさい』
また 3人が歩き始める。
『でも 学校にも近くて いい所にあるね』
『ええ それだけが取り柄ね。 でも それだけに敷地も狭くて、車を置いておく所が全然ないのよ。 だから車も買えないの』
『車なんて学生の身分で贅沢だよ。 それに学校も歩いて行けるのだし、必要がないだろう?』
『ええ それはそうね』
祥子がうなずく。
『それに』と美由紀が左からいう。 『車が欲しいときはね、祥子の従兄弟の男の子が車で迎えに来てくれるの』
『ふーん、従兄弟の人が車を持っているの。 それはいいね。 そうして必要な時に迎えにきて貰った方がずっと便利だね』
『ええ そうね。 ほんとはその車は叔母の家のもので その子のものじゃないけれど、家の人が余り乗らないので ほとんど一人で乗り回しているみたいだから、持ってるのと同じことね』
マンションの前に来る。
『さあ 着いたわよ』と祥子が言う。
立ち止まって上を見上げる。 道路側の外廊下の数を数えると、マンションは7階建である。
『この6階の、左の端があたし達の住いなの』
『というと、東の端になるのかな』
『ええ そう。 お蔭さまで朝早くから日が入って、気持がいいわよ』
道路に面した入口の上には「Hマンション」という飾り煉瓦での表示がある。 『さ 行きましょう』との祥子の声に促されて一緒に入り口を入る。 そして狭いロビーの一隅にあるエレベーターで6階にあがり、外廊下を歩いて端まで行く。 つき当たりに扉があり、612と番号が書いてある。
『ここよ』と祥子がいう。
3
入口の扉をあけて、祥子を先頭に3人が中に入る。 入った所が玄関で、その先に中廊下が右手にのびている。 廊下をたどり、つきあたりの扉をあけて中に導かれる。 そこは6畳位の広さのLDKになっており、右手にカウンターがあって、その奥が台所になっている。 また 左手には白いレースのカーテンの陰にガラスの2枚引戸の窓があり、その先にはバルコニーが巡っているらしく、手すりが見える。 一方 正面の奥には巾の狭い仕切り壁の両側に引戸が一つづつ見える。 また その左の壁には食器戸棚があって、紅茶茶碗やガラスのコップ、グラスなどがきれいに並べられている。 LDKの中央には木の食卓が左右に長く置いてあり、その周りに木の椅子が4脚納まっている。 壁などもいかにも女の子の住いらしく、きれいに飾られている。
美由紀が早速 カーテンをしたままで窓のガラス戸を開ける。 レースのカーテンが軽く揺れ、気持よい風が入ってくる。 それと共に下界の騒音も小さいながら まぎれ込んでくる。
『ちょっと外を見せて貰うよ』と断って窓際に行き、カーテン越しにバルコニーの手すりの外を眺める。 近くには高い建物が少なく、遠くの方まで町並みが見渡せ、その遥かかなたには遠くの山並みが霞んで見える。 あれは筑波かしら。
窓際から食卓の横に戻る。
『いい所に住んでるね』
『ええ お陰さまで』
祥子はそう応えて、さらにつけ加える。
『確かに眺めはいいわね。 それに 窓や戸を開けてても、ほかからマンションの中を見られる心配が全くないのが取得なの』
『うん、それが一番いいね』
そこで改めて祥子が笑いながら言う。
『所でここはめったに男の方はお入れしないんだけど、三田さんは特別なのよ』
美由紀も笑いながらうなずく。
『ああ、それは光栄だな』と私も笑顔で応える。
『それから』と祥子はつづける。 『これは初めにお断りしておくけど、この奥は男子禁制だから、あたし達2人が揃って特別許可を出さない限り入っちゃ駄目よ』
また 美由紀がうなずく。
『うん、解った。 つまりこの奥には、お2人のプライベイトな部屋があるんだね』
『ええ そう。 そしてあたし達は、たとえ自分の部屋でも 勝手には男の方をお入れしない って取り決めをしてるの』
『なるほど、共同生活をするとなると お互いにその位の心遣いは必要だね』
私は健全なその考え方に共感を覚えてうなずく。 そして わざと姿勢を正し、
『はい、よく解りました。 お姫様方のお部屋には絶対に入りませんからよろしく』
と改まった口調で言って 頭を軽く下げてみせる。 2人が吹き出して笑う。
『でも 入れないとなるとますます興味が湧くね。 一体 どんな部屋なの。 例えば箒が立てかけてあるとか、ベラドンナの花が咲いてるとか』
『まあ、あたし達が魔女だと言うの?』
祥子が大きく笑う。 そしてなおも笑いながら言う。
『お気の毒さま。 そんな特別な部屋じゃないわよ。 向かって右が美由紀の部屋で、左があたしの部屋だけど、両方とも南側のベランダに面した全く同じ造りの6帖の畳の部屋で、押入れがあって、間がふすまでつながっていて、壁際に机や本箱や洋服ダンスが並んでいるだけよ。 ご期待に副えなくて悪いけど、箒もベラドンナの花もないわよ』
『ああ それを聞いて安心した。 僕は理由も告げられずに連行されてきたから、これはまたてっきり 魔女にさらわれたんじゃないかって心配してた』
『まあ 言うわね』。 祥子がまた大きく笑う。 『今日はちょっと散らかしてるから駄目だけど、そのうちに一度、入口から中を見せてあげるわよ』
『ああ、それはどうも有難う』
私はなおも周りを見回す。
『でも、それにしても、ほんとにお2人の共同生活にぴったりのマンションだね。 いい所を見付けたね』
『ええ お蔭さまで』
祥子はそう応えた後、『じゃあ まず、お茶とケーキをご馳走するから、三田さんはそこにお座りになって』と手で示す。
『うん、有難う』と応えて、言われた通り、食卓の椅子のうちで入り口に近い側の椅子を引いて座る。 祥子が私の正面の食器戸棚からケーキ皿を3枚出して並べ、ケーキの箱のふたを開けて中を見せながら訊く。
『三田さんはどれがお好き?』
私は箱の中をちょっと見て答える。
『うん、ショートケーキを貰おうかな』
『やっぱりね』
祥子は紅茶の用意を始めた美由紀と顔を見合せ、2人でおかしそうに笑う。
『いったい何が』
『ええ、さっき、ケーキを買ったときにね』と 祥子がケーキを皿に取り分けながら説明する。 『2人で 三田さんがどれをお取りになるか 賭をしようって言ったの。 でも2人ともショートケーキって言うものだから、賭にならなかったの』
『ふーん、そうだったの。 僕はそんなに何時もショートケーキかな』
私は自分でもおかしくなる。
『ええ そうよ。 今までに4回 お茶をご一緒したけど、そのうち3回がショートケーキだったわ。 一度は丁度ショートケーキがお店に切れていて、仕方なくマロンケーキをお取りになってたけど』
『よく憶えているね。 怖いみたいだな』
私も2人と一緒に笑う。 その間に美由紀が紅茶茶碗セットとスプーン、フォークを出して並べ終る。