1
『はーい、今あける』
チャイムの音にそう応え、玄関に出て右手で錠のつまみをカチっと回し、ノブを回して扉を開ける。 祥子と美由紀が立っている。
『ああ、いらっしゃい。 中に入って』
『お邪魔します』
祥子は持っていた黒のハンドバッグと風呂敷包みを横の台の上に置き、上り口でハイヒールを脱いでスリッパにはき換える。 そして かがんで美由紀のハイヒールを脱がせ、スリッパを前に置く。 美由紀も『お邪魔します』と軽く会釈してスリッパをはく。 そう言えば美由紀は上半身にケープをはおったままで、手を全く見せてない。
『じゃ、こっちへ来て』
私は2人を導いて 廊下をまっすぐ奥へ行く。 ハンドバッグと風呂敷包みとを手にして祥子がつづき、美由紀がその後につづく。
廊下の突き当りの開きをあけて 奥のLDKに入る。 この部屋は南向きに開けていて、東側の6畳ほどの広さの板の間の西に2畳ほどの板の間がつながった不規則な形をしている。 「2畳」の北には台所がある。 そしてその6畳ほどの広間の中央に南北に長く食卓が置いてあり、食卓の両側に2つづつ椅子が並べてある。 食卓の後ろ、東側は壁で、壁際には食器戸棚が立っている。
入ってくるなり、『まあ、広くて明るくて、いいお部屋ね』と祥子が言う。 美由紀も明るい顔で、『ええ、ほんと。 丁度、あたし達2人の部屋を合せたみたいなものね』と言って周りを見回す。
『ああ、そうそう。 君達のマンションは確か、お2人の部屋が一番南に並んでいたっけね』
『ええ、そうなの。 ただ、あたし達の部屋は畳敷きだけど』と祥子。
『うん、そうだってね。 僕の所は畳敷きになってるのはすぐそこの部屋で、寝室に使っている』
私はすぐ北の2枚の引戸を指差す。 祥子が笑いながら言う。
『ああ、そう。 そこが三田さんの 神聖犯すべからざるプライベイトなお部屋 という訳なのね』
『うん、まあ そうだ』
私も笑ってそう応えながらも、祥子のそのとっさの頭の回転に感心する。
2人が食卓の横に立ち、改めて祥子が代表して挨拶する。
『昨日はどうも有難うございました。 それに早速ですけど、今日はお言葉に甘えてお伺いしましたのでよろしく』
こちらも挨拶を返す。
『いや、こちらこそ昨日はどうも有難う。 色々と楽しませて貰って、その上、夕飯まで御馳走になって、すっかり恐縮している。 それから今日はまたよろしく』
そして、さっきから気になっていたことを早速に訊いてみる。
『ところで美由紀さんは、今日も紐をまとってるのかい?』
『ええ』
美由紀は恥ずかしそうに一旦 下を向く。 そしてすぐに顔を上げて 訴えるように言う。
『これは祥子がね、今日は大切なプレイメイトのお宅に初めてお伺いするんだから、それにふさわしい姿でないといけないって言って、マンションを出る時に、あたしが何も言わないうちに縛っちゃたの』
祥子が言う。
『美由紀だって、そうしたいっていう顔をしてたわよ』
『そんなことないわ』
美由紀は不自由な上半身をゆすって異議を申し立てる。
『まあまあ、いいよ。 とにかく僕はとても嬉しいよ』
私の言葉に2人は顔を見合せてにっこりする。
美由紀のひたいがちょっと汗ばんでいる。
『とにかく暑いだろうから、ここでケープを脱いで貰ったら?』
『ええ、そうしましょう』
祥子は手の荷物を食卓の上に置き、まず美由紀のひたいをハンカチで軽く抑えて汗を取ってからケープを脱がせる。 ケープの下では美由紀は昨日と同じ形で、両手を後ろに回し、胸のふくらみの上下に2本づつの白い紐が走って二の腕を縛り付けている。 当然、手首は昨日と同様にきっちり縛り合されているであろう。 私はちょっと見とれる。
『ふーん、いい形だね』
『あら いやだ』
美由紀はまた下を向く。 念のため、と思って、きいてみる。
『これ、昨日と同じ縛り方かい?』
『ええ そう。 これがあたし達の間で一番普通の紐のかけ方で、普段も一番よく使ってるの。 それであたし達はこれを「標準形の縛り」と呼んでるの。 美由紀もこれがすっかり気に入ってるようだし。 ね、美由紀?』
『ええ』
美由紀は目を伏せたまま、小声で応える。
『全くいいね』
私はまた見とれる。
『ところで三田さん』と祥子が私の左手を指さす。 『その左手をどうかなさったの?。 さっきから一度もお見せにならないようだけど』
私は後ろに回してカーディガンのすそで手首を隠してある左手をちらっと見て、にやっとする。
『やあ、気がついたかい?。 実は今日は大切なプレイメイトの初めてのご来訪を歓迎する印に、ちょっと左手を後ろ手にセットしておいたんだ』
私は横に向いて、右手で裾をちょっとまくってみせる。 自分では見ることができないが、左手首には包帯が巻いた上に鎖が巻き付けてあって、右腰の後ろの鎖の輪にシリンダー錠で繋いである。
『ああ、これがこの前の三田さんのお話にあった、鎖とシリンダー錠による手首の拘束なのね。 面白いわね』
祥子は横にきて、私の腰の辺をつくづくと眺め、鎖を手で触ってみている。 美由紀も後ろ手のままで横に来て、もの珍しそうに見ている。
『はじめは両手とも後ろ手にセットしてお2人をお迎えしようかと思ったんだけど、今日は初めてなのに余りに唐突だからと考え直して 左手だけにしたんだ。 鎖や錠については後でゆっくり説明するよ』
『ええ、是非 お願いするわ』
そして祥子は美由紀に向かって言う。
『これで美由紀の縛りとおあいこね。 ね?、美由紀。 紐を着けてきてよかったでしょう』
『ええ』
美由紀もこっくりうなずく。
『とにかくみんな一度、椅子に座ろう。 お2人はそちら側の方が落ち付いていいかな』
私はそう言って、食卓の食器戸棚の側の2つの椅子を指さして勧める。
『ええ 有難う。 そうさせて貰うわ』
祥子はそのうちのベランダに近い方の椅子を少し引いて美由紀を座らせ、自分はその右隣りの椅子に座る。 私は2人に向い合って座る。
2
祥子は食卓の上の風呂敷包みを開き、『はい、これ、コロンバンのケーキ』と言って、中の紙の小箱を私の方に押しやる。
『ああ、どうも有難う』
『ちゃんとショートケーキも入れてきたわよ』
『やあ、それはどうも有難う』
同じような言葉をくり返す私の返事に、2人は顔を見合せて笑う。
『所でお2人とも、今日はゆっくりして貰えるんだね』と念を押す。
『ええ、その積りよ』と祥子。
『それじゃ、美味しいケーキは後でゆっくりいただくことにして、今はまず、ビールで乾杯しようか』
『ええ、それがいいわね』
『じゃ、祥子さん、そこの食器戸棚からコップを出してくれないか?』
『はい』
祥子は後ろの戸棚からコップを3つ出して食卓の上に並べる。 私は隣りの台所の冷蔵庫からビールを1本出してきて食卓にのせる。 そしてさらに台所の戸棚からピーナッツの瓶と小皿を出してきて、右腰の後ろの左手でピーナッツの瓶を持ち、右脇をのぞき込むようにして右手で蓋をあけ、瓶を右手に持ちかえて、小皿に盛って出す。 祥子が見ていて、『結構、うまくやるものね』と言って笑う。 そして自分はビール瓶の蓋をあけ、3つのコップにビールを八分目づつ注ぐ。
すっかり用意が整って、祥子と私はもとの席に戻って座る。 そして改めて私が2人に歓迎の挨拶をする。
『今日はほんとによく来てくれて有難う。 昨日はああ言ってたけど、男の一人暮しの所に本当に来てくれるかどうか、ちょっと心配だったんだ。 それに時間も正確で、しかも美由紀さんが紐の衣裳まで着けてきてくれて。 ほんとに嬉しく思っている』
祥子が応える。
『もちろん間違いなくお伺いする積りだったわよ。 だって三田さんみたいにあたし達の理想にぴったりの人って、そうは居ないもの。 美由紀だって、三田さんに嫌われると大変だから時間もきっちり行きましょうって、大変だったのよ』
『そんなことないわ。 祥子の方が熱心だったわよ』と美由紀がまた抗弁する。
『まあ、どちらでもいいよ。 とにかく、お2人が来てくれてとても嬉しいよ。 じゃ、乾杯しよう』
私は自由な右手でコップをもって立ち上がる。 祥子もコップを右手で取って立つ。 美由紀も立ち上がったが、コップを持てずに体をもじもじさせる。 それを見て祥子が、
『あ、そうだ。 美由紀はコップを持てなかったわね。 それじゃ美由紀の分もあたしが持つわ』
と美由紀のコップを左手で取る。 そして両手のコップを一つづつ差し出して言う。
『こっちが美由紀の分、こっちがあたしの分。 じゃ、よろしくね』
そこで改めて私が乾杯の言葉を唱える。
『それじゃ、改めてお2人のご来訪に感謝します。 これからの3人のプレイの発展を願って』
そして、『乾杯!』とコップを高く差し上げる。 祥子と美由紀も声をそろえて『乾杯!』と唱和し、3本の手が食卓の中央に集まってコップがふれあい、カチッカチッと音がする。 私はビールを一口ぐっと飲む。 祥子はまず美由紀に一口飲ませてから、自分も一口ぐっと飲む。 そしてコップを置いて一人でパチパチと手を打つ。
『ちょっと拍手の音が寂しいね』と私が笑う。
『でも、しょうがないわね。 自由な手は全部合せても3本しかないんだから』と祥子も笑う。 美由紀も笑い顔を見せる。
皆がまた腰を下ろす。 祥子は美由紀にもう一口飲ませ、自分も一口飲んで、
『ああ、おいしい』と声を出す。
『本当においしいわ。 少し汗をかいたから一層おいしいわ』と美由紀もいう。 そう言えば、さっき祥子が汗を取ってやったばかりの美由紀のひたいの辺が、また少し汗ばんでいるように見える。
『そう言えば、今日はいい天気だね。 その上、ケープまではおってちゃ、道中さぞ暑かったろう?』
『ええ』
美由紀がうなずく。
『そう。 あたしでも少し暑いぐらいだったわ』と祥子も言う。 『それにしても今日は風もなく穏やかに晴れて、何だかうちの中に居るのが勿体ないような、いいお日和ね』
ちょっといたずら心を出して、笑いながら誘ってみる。
『じゃ、今日はどこか近くに散歩に出ようか。 この辺は緑も多いから気持がいいよ』
『駄目よ』と祥子が断固とした調子で言う。 『今日は三田さんのお一人でのプレイぶりを見せていただくために伺ったんだから』
『ああ、そうだったね。 じゃ、残念だけど提案取り消し』
また3人で顔を見合せて笑う。 祥子が再びハンドバッグから白いハンカチを取り出して、美由紀のひたいの辺を軽く押えて汗を取ってやる。
『ほんとに面倒見がいいね』
『ええ、ペットは精々可愛がってあげないとね』
美由紀がまた恥ずかしそうに下を向く。
3
ピーナッツをつまみながら訊く。
『ところでお2人はここまで、どういう乗り物に乗って来たの?』
祥子もピーナッツを美由紀の口に入れてから答える。
『ええ、今日は何時ものM線のH駅で地下鉄に乗って、A駅乗り換えでSまで来て、そこでTデパートののれん街でケーキを買ってから、後はタクシーで来たの』
『ふーん』
私は2人の顔をまじまじと見る。
『それがどうかして?』と祥子。
『うん。 とすると美由紀さんは、後ろ手に縛られたままで地下鉄に乗って、のれん街に入って、タクシーに乗ってきた、という訳かい?』
『ええ、そうよ?』
祥子はまた、『それがどうかして?』というように私の顔を見る。 私は自分のためにそんなことまでしてくれて、と少し心配になる。 そこで今度は美由紀にきく。
『それで美由紀さんは、そんなことして大丈夫だったのかい?』
『ええ、この頃は大分乗物にも馴れてきて』と美由紀は恥ずかしそうに返事する。 『初めの頃は恥ずかしくてとても嫌だったけど、祥子に何度も連れ出されて、少しづつ馴れさせられてしまったの』
『ふーん。 もう、そんなに何回も経験してるの』
『ええ、そう。 それは今でも周りの人に気付かれはしないかってすごく気になるけど、でも地下鉄の切符は祥子が買って自動改札に入れて通してくれるし、今日みたいにケープで隠してれば、普通にしている分には外からは縛られてるのが判らないから、何とかすごせるの』
『ふーん、なるほどね』
『ただ、地下鉄は今日は座れたからよかったけど、混んでて立ったままだとちょっと嫌なの。 吊り革につかまれないから、揺れたとき転びそうになって』
『そうだろうね。 特にあんなかかとの高いハイヒールをはいてちゃ大変だ』
『ええ、そうね』と今度は祥子が話を引き取る。 『それでそういう時は、大概は壁や柱に半分もたれるようにさせたり、あたしが目立たないように手で支えたりするんだけど、それでも不安なようね』
『ええ、とても心細いの。 でも、バスよりはいいけれど』と美由紀。
『そうだね。 バスはまた揺れるからね』
『ええ、バスでは立っているのはちょっと無理だし、席があいてても座る前に動き出したりして危ないから、なるべく避けてるの』
『なるほどね。 でも乗ることはあるのかい?』
『ええ、時々はあるわね』とまた祥子が引き取る。 『それは始発のバスストップで席が前向きで座れる場合。 それも発車間際のは避けて』
『ああ、それなら大丈夫かな』
『ええ、降りるときは止まってから席を立てば、地面に足が下りるまでは動き出すことはないから』と祥子。
『でも、バスだと、座ってても足をよほどふんばってないと、時々なげ出されそうになることがあるので怖いわ』と美由紀が肩をすくめる。
『なるほど、そうだね。 普通はそういう時は、とっさに手を使って体を支えるものだからね』
『ええ』と美由紀はうなずく。
『所で』と話題をもとに戻して訊く。 『地下鉄でもこの頃はいつも混んでて、座れることはむしろ少ないんじゃないのかい?』
『ええ、ほんとうによく混んでるわね』と祥子が受ける。 『それで、なるべく座れそうな時間帯や車両を選んで乗ることにしてるんだけど』
『そうは言ってるけど、祥子は時々、とても混んでる電車に乗せるのよ』と美由紀がまた恨みがましく言う。
『でも本当に混んでたら、周りの人に支えられて倒れることが出来ないから、却っていいんじゃないかしら』と祥子が笑う。
『そんなことないわ』と美由紀が口をとがらせる。 『人に押されて、すぐにころびそうになってしまうわ。 特に乗り降りの時がすごく怖いのよ』
『そうだね。 それは危ないね』と私も同調する。
『まあ、三田さんまで美由紀に同調して。 憶えてらっしゃい』と祥子が言う。 肩をすくめてみせる。 3人でどっと笑う。
『でも実際は、混みそうな時は電車を避けて、タクシーで帰ることにしてるの。 だからこういう姿で人と押し合うような電車に乗せたことは一度もないわよ』と祥子が言う。 『ええ、そう』と美由紀もうなずく。
『なーんだ。 それじゃ、同情して損した』
3人でまた笑う。
『でも、電車で座れないで立ってることはしょっちゅうあるわよ』と美由紀が言う。
『そうね』と祥子が真顔になる。 『空いてる時間を選んで乗るといっても、銀座から帰る時などは地下鉄で座るのはやはり無理で、立つことが多いわね』
『ええ、そう』
4
話がはずんで、コップのビールがちっとも減らない。 思い出してコップを取り上げ、一口飲む。 祥子も美由紀に一口飲ませ、自分も一口飲む。 喉を通るビールの感触を楽しみながら、ハイヒールを履き、ケープを羽織った美由紀が、ゆれる地下鉄電車の中で、入口の横の壁に軽く体をもたせかけて心細げに立っている姿を目に浮かべる。 それにつられて改めて尋ねる。
『所で美由紀さんは、今みたいな姿で外出する時は、いつもあんなかかとの高いハイヒールをはいてるのかい?』
『ええ、そう。 祥子がいつもあたしに、かかとの高いのを選んで履かせるの』
私はますます興味を持ってくる。
『今日のはかかとの高さはどの位あるの』
『そうね。 7センチ位かしら』
私は心の中で、『それなら、私のと同じ位だな』と思う。 でも、美由紀は足が小さいから、同じ高さでも不安定感は強いであろう。
『あたしのもかかとの高さは一緒ぐらいよ』と祥子が横から言う。
『でも、祥子は両手が自由でしょう?。 あたしは手でバランスを取れないからとても不安なの。 実際、時々は転びそうになってひやっとするの。 それに一度転んだら、もう一人ではすぐには立てないし』
『そりゃそうだね。 あの高いハイヒールを履いて、後ろ手にくくられてたんじゃ、立ち上がるのはちょっと難しいだろうね』
『ええ、そうなの。 かかえて貰っても、なかなか立てないの』
『でも』と祥子が口をはさむ。 『ほんとに転んだのは、まだ2回だけじゃない。 それも1度は周りにほとんど人が居なかったし』
『そんなの1度でたくさんだわ』と美由紀が口をとがらす。 そして、『それにしても、あの、この間の地下鉄の中でころんだ時は、ほんとに恥ずかしかったわ』と、いかにも恥ずかしそうに肩をすくめる。
『え、そんなことがあったの』
『ええ。 それはこの前の日曜日の朝だったけど、また、この縛りの姿で祥子に遅い朝食を食べさせて貰ったの。 そして食事が終ったら祥子が「今日は天気もいいから、今から銀ぶらに行きましょう」って、そのままあたしの肩にケープを掛け、ハイヒールを履かせて、外に連れ出したの』
『ふーん』
『そしていつもの地下鉄にH駅から乗ったら、目の前に3人分くらい並んで空いてる座席があったの。 それでそこに座ろうとしたら丁度電車が動き出して、ついバランスをくずして、くずれるようにして床にころんでしまったの』
『ふーん。 それは大変だったね』
『ええ、周りの人達はじろじろ見るし、祥子はなかなか起こしてくれないしで、もうほんとに泣きたくなったわ』
美由紀はその時の気持を思い出すかのように、目を空中に漂わせる。
『あの時はすぐに起こしたあげたわよ』と祥子が横で言う。
『そんなことないわ。 ずいぶん時間がかかったわ』と美由紀が口をとがらす。
『うん、そうだね』と私は間に入り、とりなすように言う。 『特に動いている電車の中じゃ、抱いて起こすのも大変だね。 それに、とかく待つ身になると時間がすごく長く感じられるものだからね』
『ええ。 それに座席に座った後も周りがあたしをじろじろ見てるような気がして、銀座で降りるまで恥ずかしくて顔も上げられなかったの。 その時間の長かったこと』
美由紀はちょっとうつむいてコップを見詰める。
『それはほんとに大変だったね』と私も同情する。 そして改めて訊く。
『そんなことがあっても、紐を掛けての外出は、やっぱりいつも、あの位の高いハイヒールを履いて出かけてるのかい?』
『ええ、そう』
美由紀は相変らずコップを見詰めながら短く答える。
『大体美由紀は、パンプスはヒールの高いのしか持ってないのよ』と祥子が横から言う。 すると美由紀は顔を上げて、
『だって祥子と一緒に靴を買いにいくと、何時もたかーいのを選んで、「これになさい」って言うんですもの』と、また恨みがましく言う。
『ええ、そうよ。 だって、あたしがかかとの高いパンプスを履きたいのに、美由紀がローヒールじゃ、並んで歩く時にバランスが取れないじゃない。 少なくともあたしと同じかかとの高さがなければ』と祥子がすまして言う。
『そうだね。 祥子さんの方が大分、背が高いからね』と私も笑いながらうなずく。
『それに美由紀だって、自分でもすぐにかかとの高いのを選ぶじゃないの』
『ええ、あたし、普段は少しでも背を高く見せたいから』 美由紀が小声でそう言う。 3人でどっと笑う。
『それで、地下鉄でもそんなことがあるとすると、やはりタクシーが一番安心という訳かな?』と話題を移す。
『ええ、まあ そうね』と祥子はうなずく。 そして、『でも、タクシーの乗り降りも両手が使えないと何となくぎこちなくなるので、運転手さんに気付かれないか、気になるものらしいわね』と付け加える。
『ええ、そうなの。 だってタクシーの運転手さんって、あたし達が乗り降りする間、じいっと見てるでしょう?』
『まあ、それは仕方がないだろうね。 先方はそうやってお客様の安全を確かめるのが義務なんだから』
『ええ、それは解っているけど。 でも、それから暫くの間、一緒に居ることになるでしょう?。 運転手さんって、そのように教育されてるそうだから顔には出さないけど、心の中ではどう思ってるかしらって、その間中、とても気になるの』
『でも、美由紀はそういう緊張感を結構楽しんでるのよ』と祥子が笑いながら言う。
『そんなこと、ないわよ』と美由紀はまた不自由な体をゆすって抗弁する。
『また、始まった。 お2人は本当に仲がいいんだね』と私が笑う。
『ええ、ほんと』と2人も笑う。
3人のコップのビールがなくなる。 祥子が残っているビールを3人のコップに公平に注ぎ分けて瓶を空にする。 そして美由紀にコップの3分の1くらいのビールを一息に飲み干させる。 自分もぐっとコップをあける。 私も自分のコップを空にして、『さあ、終った』とそこに置く。 そして、『今の乗物とハイヒールの話、ほんとに面白かったよ。 有難う』と礼を言う。 美由紀が恥ずかしそうにまた顔を伏せる。
祥子と2人でコップの類や空になったビール瓶を手早く台所に運び、テーブルの上を空けて奇麗に拭く。 美由紀は手出しが出来ず、黙って見ている。